三鷹市芸術文化センター 風のホールと僕

僕の日本での正式なデビューは1995年。。

それから早24年です。
その間に、多分、もっともお世話になっておるホールの一つ。。。。
それが三鷹市芸術文化センター 風のホールです。

自分の記憶の中で、一つ問題なのは、
正直いうと、そのホールに行った、ことのある印象というのは

1.苦労した演目だと、たった一曲出演しただけでもすごく印象に残る。
(なのでリサイタルは2回しかしていないけど現代曲を弾きに行くことの多い
サントリー小ホールと東京文化会館小ホールはめちゃくちゃ何度も行ってる気がする)
2.同じ類型の演目で何度か行くと印象が薄れるというかその数回が一回になってしまう。

という問題点がありまして、
先にお詫びしてしまうと

コンサートでは幾度も
と述べたのは確かにそうでしたが
その内訳はかなり濃かった。
で、できる限り調べた。

98年6月11日 リサイタル 後半フルートの岩佐和弘さんゲスト
99年10月23日 渡辺香津美さんとデュオ
2001年11月9日 トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ 指揮は沼尻さんでアランフェス
2005年6月11日 三鷹管弦楽団とアランフェス
20011年10月15日 大萩康司くん村治奏一くんとトリオ
2014年9月27日 ソロで映画音楽名曲コンサート

と、それはたくさん出演させていただいているのであります。

このほかに、マリンバの通崎睦美さんのレコーディング、
自分の伊福部昭作品集のレコーディング、
木下牧子さんの合唱とのレコーディング
と、録音にも何度もうかがっています。

そして、アマチュア・ギターコンクールの審査を2度ほど・・・

正直、風のホールの残響はほぼ体に入っている、といっても
過言ではないくらいです。

でも、それだけではありません。
なぜ三鷹の風のホールが
これほど印象深く自分の中にあるのか、というと、
ちょっと個人的で重い話なので恐縮なのですが、
98年の6月10日に父が他界しまして、
僕はその日も小さなライヴでシャンソンの伴奏をしており、
次の日も三鷹でコンサート。

喪主の務めを全く果たせぬまま、
お骨だけ火葬場で拾ってその喪服のまま風のホールに向かいました。

父は僕の演奏会には必ず来ていたし、
最後まで友人に、僕のこと「よろしくね」と頼んでいたみたいなので、
多分、彼の葬儀の日にコンサートがあるなら
それを一生懸命弾くことの方を彼は望んだと思うのです。

火葬場から、一瞬だけ家に帰って、
そのあと三鷹の風のホールで弾く、
バッハのBWV1005のソナタの第3楽章を
家で一人になれた数十分の間に弾いたことを覚えています。
父がなくなって泣いたのはそのバッハを弾く間だけでした。

でも、なんというのでしょうか、
親をなくすというのは、
ものすごいテンションになるというのか、
そのあとの三鷹の演奏は壮絶なまでに攻め攻めだったという風に
記憶しています。
打ち上げも、すごくたくさんの方が来てくださって
中野で遅くまで飲んでたんだけど、
それでも気持ちがおさまらなくって、
数人の友人と朝まで飲み明かしました。

父の最後はすごく寂しくて、
僕は全然面倒を見てあげられませんでした。
う〜ん、なので、
あの三鷹の後の中野の夜はほんと、ただの自暴自棄だったけど
今でもずーと記憶に生々しく残っていますし、
(そしてそれにお付き合いいただいた皆さんのお顔も。
感謝に絶えません。)
その7年後の同じ日に同じホールでアランフェスを弾いたのは
すごく悲しかったというか、感慨深かったです。


とても近しい誰かがこの世を去る、
ということについて、
僕はその規範とも思えるくらい凛々しい姿を
友人知人のご家族に見ることがままあるのですが、
自分がそのようにきちんと父の他界に向き合えていなかったことを
多少なりとも後悔するとともに、
それと同じくらい、
三鷹の風のホールという素晴らしいホールの響きの中で
最後の父の魂への思いを語り尽くせたことへの感謝、
そして、その時の自分の思いの吐露の
少なからぬ未熟さに、
風のホールを訪れるたびに思いを馳せます。
そして、風のホールで演奏する毎に、
着実に歳を重ね、ほんの僅かづつながら
何かが変わってゆく自分を見つめることができるのです。

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