クラシック音楽の配信に向かってきはじめた

配信のお話が僕の周りでも
少しずつ聞こえ始めています。

以前にこのblogで、
配信は生のコンサートの代替案であっては
いけない気がする、
と言うことを書きましたが、
最近は自分自身でも
配信を想定して何を演奏するか、
ということを考えるようになり、
いくつかの点で、
生のコンサートにはない大きな違いや
メリットが明確になってきました。

メリット、と言うのは、
同時にデメリットなのです。
生演奏の体験をそのまま配信に置き換えようとするので、
人はそれをデメリットと呼ぶだけで、
配信をベースにして考えれば、
そのメリットは実は
生演奏のデメリットであったりするわけです。


配信される映像コンテンツが持つ、
生演奏にはないもっとも大きなメリットは何でしょう。

それは当然、
アングルの豊富さやカメラ、視点の近さです。

ホールからの無観客配信をするとしましょう。

今、そう聞いて、ある特定の座席からの
定点カメラのみからの映像を思い浮かべられた方は
いらっしゃるでしょうか?

おそらくほとんどおられないはずです。





僕の父は筋金入りのジャイアンツ・ファンでした。

僕が子供の頃はまだ、
読売巨人軍の試合は地上波のテレビ放送で
毎日見ることができましたので、
父も当然毎日野球中継を観ていました。

父とはその後早くから離れて暮らしましたが、
幼い頃の父の記憶は、
ほとんどテレビの前で野球を観ている姿、
と言っても言い過ぎではないくらいです。

少し成長してから、
初めて野球場につれれ行ってもらって
内野スタンドの席から試合を観た時の
子供としての最初の感想は、
「小さい...」
でした。
自分が野球少年だったりすれば、
ある程度想像もついていたのでしょうが、
テレビの中継しか知らずに球場に行けば、
当然、子供は「小さい」あるいは「遠い」と
感じてしまうのも無理はありません。

例え話が
長くなりましたが
配信コンサートは
複数の視点、
それも座席の位置からは追えないような複数のアングルを
設定することができるでしょう。

ですから手元も大きく映すことができます。





次に、音響も、
うまく集音すればホールの空気感や残響を
低いスペックのビット・レートでも感じてもらうことが可能でしょう。

ここで話は横道に少しそれますが、
僕は配信のための録音は、
ハイレゾ配信によるデータ・コンテンツや
CDやSACDのレベルである必要はないと思っています。
どこまで現実には起こり得ない臨場感を感じていただけるか、なのです。
そこをスタートにして、
あくまでオプションとして、
追加料金によるハイレゾリューション・サウンドの可能性を
もうけるべきだと思います。


次に、
この視覚的に近い、定点観測ではない、
と言うメリットによってもう一つの可能性が開けます。

それもとてもシンプルなことです。


古楽やサロン音楽など、
成立した当時は非常に親密な空間で演奏されていた音楽を
その部屋に同席したかのように観る、あるいは聴くことができます。

簡単に言うと、
今までのホールでの生コンサートは、
劇場で行われるお芝居だったと思ってください。
それが配信によるクラシック演奏では、
テレビドラマのような距離感で観られるのです。

たとえ密室が舞台のひそやかな会話のみによる設定の演劇でも、
観客を前にほんとうに生の舞台上で
ささやくように演じる役者さんはいません。
マイクを使っていたとしても、
客席に通る説得力のある声で演じられるでしょう。

今のホールでのコンサートの楽器の演奏の仕方は
そのような作法がベースになっています。
それはそれで、例えばオペラなどで、
素晴らしい歌手の方の生の声が客席を満たすだけで
全員が幸せな気分にしてもらえる、
と言ったような、19世紀以来
本道であったクラシック音楽の素晴らしさへとつながります。

ですが同時に、
生の音である限り、
その響きでホールを満たすのには
ささやくことは許されません。

ところが、
実際にバロックやサロンの音楽が生まれていた当時の環境では、
時にそれは非常にか細い音で演奏されていたことだって
あったでしょう。


配信であれば、
そのようなインティメイトな音楽の体験を
提供することができます。

夜、バロック時代の作曲家が暗い自室で
ひっそりと弾いていたクラヴィコードの
繊細な響きも、
その部屋に居合わせた妖精か幽霊のようになって
聴くことができます。


もちろん、
今までコンサートホールを豊潤に満たしていた
厚みのある声や楽器の響きだって、
現代の技術をもってすれば
配信でこその空間性をもった音響にすることが可能でしょう。

ホールの固定された客席のひとつに臨場するのとはまた違う種類の音響体験として、
空中の釣りマイクの位置などに
聴感ポイントを設定することだってできるでしょう。

僕がそこで思い出す例としては、
ルネ・ヤーコプスの指揮する
マタイ受難曲のような、
教会の異なる場所に配置された二つのオーケストラの
位相がもたらす立体的な音の響きの持つ意味を 
再現して配信することも可能かもしれません。


ホールという空間がある限り、
配信によって
ささやくという選択肢が増えるだけで、
ホールを鳴らす、と言われてきたような、
最後列の客席まで届くような発音にかける
情熱と、楽器の振動へのアプローチは
終わることがないはずです。




ここで、
このメリットと少し背中合わせにある
デメリット、と申しますか、
常識的にこれまでの生のコンサートと同じに
考えてはいけない注意点が発生します。


それは特に
お客様を客席に入れない、
無観客のコンサートにおいて顕著になります。


ちょっと大雑把なくくりでお話しせざるを得ないので、
色々なご意見も皆さんおありになるだろうと
覚悟してお話しするのですが、

クラシック音楽は、

歴史上親密な集いの場での楽しみだったことがありました。

初めのうちは神に祈りを捧げる集まりでのハーモニーであったことがあり、
そのうち人々が集って楽しむハーモニーとなりました。
どちらにせよ、2000人のために演奏されるものではなかったでしょう。
もしかしたら、古代のコロッセウムのようなところでの
催し物の前に、歌を唄ったり奏楽する人はいたかもしれませんが...


それが徐々に、
大勢の群衆を前に超人的な集中力と技倆を発揮する
ヒロイックなイベントへと進化してきた歴史を持ちます。


そこにはある程度以上の
スペクタキュラーなカタルシスさえ求められてきました。

そしてそのようなドラマティシズムには、
真に作品とその演出、演奏によって生み出されていたものと、
大観衆が共有することで初めて発生する
群衆心理に依拠したものとが混在していたように思います。


無観客配信の場合、
この群衆共有心理は起こり得ません。

ですから、
上記に述べたような
忘れられていた命を取り戻す
“ささやくような”音楽がある一方で、

配信によって命を失う
イベントとしての性格が支配的な音楽があるでしょう。




さてところで、

実際に僕のような
実演中心で生活している人間が、
スタジオなどでカメラのためだけに
演奏されることを突然求められると、

いかに普段、
お客さまの集中力やエネルギーに
背中を押していただいて演奏していたのか、を
痛感します。


パコ・デ・ルシアのような天才奏者でも
2010年のライヴ・アルバムのライナーノーツで
こんなことを言っています。



ライヴ録音は贅沢だ。
側にいるミュージシャンたちの息遣いを感じることができる。
自発的であり、祝祭的であり、喜びがある。

時折、ミスをすることがあっても、
アドレナリンがそれを解決する方法を
見つける手助けをしてくれるような
興奮の坩堝にいるので、
ほとんどいつも驚くほどの、
時にはもとの作曲を超えるような結果をもたらす。
起こることが真実なのだ。

ステージの上で生み出されるエナジーが
スタジオで実現することは決して無い。
完璧さに近づくことはできるが、
音楽の魂はステージ上に起こる可能性が高いのだ。




配信コンテンツも、
例えそれが無観客であれ、
このパコの言葉のような現象を実現し、
伝えていけるような方向を目指して
進化していけたら良いのではないかと思います。

それは演者さんで言えば、
ひょっとしてテレビが生まれたてで、
生放送でドラマをやっていた時代に
ちょっと似た何かがあるのかもしれませんし、

その一方で、

番組などで演奏やお話をする際に、
僕が若い頃言われたように、
カメラやマイクの向こうに
何万人もの視聴者の皆さんを想像して弾きなさい、

というのとも少し異なる気がしています。



20世紀後半、
レコーディングや収録などのスタジオ・ワークと
お客様を前にする生の実演、コンサートが
手法的に少し距離を持った時代が始まりました。

その過程で、
収録に適した演奏の様式、
あるいはそれを壊すためのライヴ録音、ライヴ録画、
という形式が生まれてきたと考えられます。

ですが、20世紀前半までは、
ひとつの目的のためにだけ演奏芸術は磨き上げられ、
船上のサロンでピアノを囲む愛好家の一群も、
あるいは時に大観衆となって割れんばかりの拍手を贈る聴衆も、
一度起きたことが何度も再現されてしまう科学技術も、
その演奏芸術を取り巻くある日の一環境でしかありませんでした。


僕はその時代を生きていたわけではありませんが、
憧れのSP盤アイドル(大巨匠に向かって...😅)たちの演奏を仰ぎ見つつ、
デジタルという記録媒体を新たに伴ってはいるものの
その頃の環境に、螺旋状に回帰してきているような
印象を持ったりもするのです。
























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