悲歌

武満さんの映画音楽を聴いていたら、
「儀式」という映画の音楽の中に、
ヴァイリンとピアノのための「悲歌」を
ヴァイオリンとオーケストラのために
編曲したものが使われていました。

いたしかたのないことだけれど、
ヴァイオリンが、ピアノだけの伴奏でこの作品を「歌う」と、
必然的に、ある音が、次の音へと変位するための
インターバルを、時にはポルタメントを伴う形で
むりやり聴衆に「経験させてしまう」ことがあります。
これが、時々、
シェーンベルクの曲や
アルバン・ベルクの曲についてもそうなんですが、
つらく感じられるのです。
現代の作品のように、トーナリティを正面からとらえるのではなく、
重力の中心と考えて、周辺を浮遊するメロディーラインにおいては、
跳躍の意外さを聴かせるよりも、
その特異な跳躍によって生み出されるものの方が、
大事ではないかと・・・

例えばチャイコフスキーの協奏曲だったら、
メインテーマがの頭の「ラーファっファー」
っていくときのラとファのインターバルだったら、
聴衆にはっきり体験させ、意識させ、
「明るい曲」である中に、自分の想い、
たとえばそれが、優美さだったり、ヒロイックなものだったり
するわけですが、そういう気持ちを込めるためにも
インターバルをしっかり表現しなくてはならないでしょう。

でも、現代においては、
そこにあるのに見えていないものを選びとっていくわけですから、
それが「見えた」あるいは「「聞こえた」時に
初めてカラーが発生するわけであって、
チャイコフスキーとはちょっと違うのですね。

「悲歌」も、オーケストレーションされることで、
より空間が完全な色彩のバックグラウンドを持ち、
独奏者は次の音がどんなに遠くにあっても、
自己の超人性によってそれをひねり出さなくて良いわけで、
とても自然に聴こえるようになっています。
誤解を恐れずに言えば、
それだけピアノという楽器は、
「ならしている音だけが絶対的な価値を持つ」楽器なので、
何かほかの物を聴き取ろうとするには
とても不向きな「面もある」ということだと思います。
メシアンの、「24のまなざし」には、
とてもトランスパレントな、
幾重にも重なったステンドグラスみたいな和音があるけど、
楽譜を見ると、それを表現するために
こんなにたくさん音を弾くのか・・・・と、
殊に表現しているものの中に、
意図せず勝手に風穴が空いてしまう宿命にある、
我々ギタリストは感嘆するのです。

オーケストレーションされた「悲歌」は、
ギドン・クレーメルの「ル・シネマ」というアルバムの中の、
「ノスタルジア」の演奏が僕は大好きなのですが、
どこかしらそれに似ている雰囲気の演奏でした。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック