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「キネマ楽園」とか、鬼怒さんとの音楽は、 素材がポピュラーなものなので、 それをどうやって、ギターらしく、自分らしく 料理できるかということに集中しています。 ですから、比較的、 その曲の元の演奏から離れてしまっても、 雰囲気が出てたらOK、みたいなところがあり、 それ以上に全体の演奏が醸し出す色彩とか、 グルーヴ感、を大切に優先します。 でも、クラシックのリサイタルっていうのは、 正直それだけじゃないんですよね・・・ あ、これは、クラシックの方が情報が多い、とか そういうことではないんです。 クラシック音楽、 作曲家によって書かれた通りに演奏されるべき音楽、というのは、 自分らしさ、グルーヴ感、ていうのは、 「ひょっとしてそういうところまで行けたら良いね」 という、言わば応用編であり、それ以前に、 音がきれいに出ている、とか、 聞いているお客さんにストレスをなるべく与えない、 (つまり、大変そうに聴こえたくない) みたいな、お約束的お題も満載なんです。 もちろん、それらを、 自分なりにクリアーした時に、 やっと自由になれて、音楽を表現する スタートラインに立つ、わけなんですね。 そうすると、 クラシックは、グルーヴを少々引き延ばしてでも、 表現しなければいけない歌とか、情念があったり、 (美空ひばりさんって、そういう風に聴こえる) 逆に自分らしさを抑えて、 黙々と作曲家の指令に従わなければならなかったりする場面が 時折起きてきます。 (これはちょっとテクノの作業に近い) 僕は、これを、 グラヴィティーの違い、だと思ってます。 ハーモニーを表現する時に、 ある一定のビートの中で、最大限に自由を獲得するのが ポピュラーな音楽だとすると、 ビートから逸脱してでもハーモニーを表現する、 ことが必要になってくるのがクラシック、 いや、どっちがどうという定義はありません。 そういう座標の中を音楽が行ったり来たりしていて、 4等分された座標軸のどの辺りに落ち着くか、で クラシック度が高くなったり下がったりします。 今日は、練習している最中に 頭の中のフォーカスが、どんどん細部に移って行って、 その細部を、例えばビートから浮いた状態で感じ取る、 ということが出来るようになってきました。 これは、価値感クラシックに切り替わる良い兆候です。 ビートって言う良い方だと、拍節、って言う話になっちゃうから 誤解されるかもしれませんね。 例えば・・・ 今、ここに、4小節の民謡みたいな、 歌うとすごく納まりの良いフレーズがあります。 これをそのまま弾く心地よさというのは、 それまで繰り返されてきた何かの曲の、4小節とか、 8小節のパターンの中に、 この気持ちの良いフレーズが現れる快感なんですね。 でも、今、僕が弾いている曲の中に、 そういう4小節のフレーズを半分に分断して、 真ん中に2小節、ほんとうに和音とアルペジオ的装飾だけの、 抽象的な音楽を挟み込んである曲があります。 がむしゃらにさらっていると、 この真ん中の、意味の解体される2小節が、 ぜんぜん身体に入ってきません。 そこにフォーカスすると、 もとあった4小節のフレーズの、 分断された後ろ側の2小節が、まったく歌えていないことに気づく。 で、イメージを膨らませて、 歌の途中に、ふと窓から外に眼をやると、 遠くの方で、雨雲と晴れ間が2層になって見えている、 あの雲の下は雨なんだな〜、 と思いながら再び部屋にパンすると、 自分の歌の、まだ歌われていない残りの2小節が 宙に浮かんだように待っていて、 自分の声となって立ち現れる。 そんなストーリーを自分の中に取り込むんです。 そうすると、その6小節間が、 突然自分にとってリアルなものとなって、 楽譜を見なくても演奏できるようになるんです。 上手くお話できたかどうかわかんないけど、 今日は、ちょっとそういう感じになってきました。 |
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今日のお話めちゃめちゃ面白いです!!! |
yucca 2008/07/03 00:01 |
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